ex-TYPIST

元TYPIST,現Therapist(予定)

CO2 in Tokyo 三宅唱監督の上映に寄せて

本日21:00〜、池袋シネマロサで三宅唱監督の初長編『やくたたず』が上映されます。
それに合わせて『やくたたず』へのコメント集を三宅監督が作ったそうで、それが今日配布されるそうです。
そこに、私もそれなりの長さの文章を寄せています。
面白い企画だと思うので、ぜひ見にいらしてください!

さらに今日は上映後に、大友良英氏とCO2監督たちのトークがあるそうです。
こちらも面白そうです。

やくたたず』がいかに「新しい」映画か、目撃してみて下さい。

ハルトムート・ビトムスキー インタヴュー

映画批評ウェブマガジンflowerwildに掲載されている、ハルトムート・ビトムスキーへのインタヴューに、私も参加させていただきました。

とはいえ私は本当に参加させていただいただけと言っても過言ではなく、その場で質問も一回くらいしかしていませんし、文字起こしや校正の段階では自分の仕事できなさ加減に呆れたものです。
こうして立派なインタヴューに構成して下さった三浦さん、葛生さん、なによりビトムスキー氏に感謝しています。

『塵』自体とても面白い映画でしたし、インタヴューも充実していますので、ぜひご一読いただけるとありがたいです。

「未来の巨匠たち」に寄せて

2010年1月23日〜29日に、横浜黄金町のシネマ・ジャック&ベティで、注目の若手監督たちの特集上映「未来の巨匠たち」が開催されます。

そこで上映される三宅唱監督の作品について、「楽しい三宅唱」と題した短評を寄せましたので、よろしければご一読下さい。

三宅作品の楽しさは、もちろんその映画自体を見ないことには決して味わえませんので、1月28日の14時には、黄金町に行ってみてください!

「未来の巨匠たち」は若手監督たちのラインナップも面白そうですし、参考上映作品も充実してますので、ぜひ!

最近の活動

もうほんとに、早いとこ早稲田映画まつりで見た他の作品の記事とか、さらに言えば書こうと思って途中でやめたままになっている山形ドキュメンタリー映画祭2009日記とか、FILMEXレポートとか、書きあげたいのですが、なかなか進まなくて、この調子です。

とはいえ各地各所でTYPIST以外の活動もやっておりますので、宣伝というか告知させていただきます。

まずは、2009年10月24日に公開された、リチャード・カーティス監督の新作『パイレーツ・ロック』について書いた文章を、映画批評サイトFlowerwildに寄稿させていただきました。
お読みいただけると嬉しいです。
パイレーツ・ロック』は、2010年1月30日〜2月5日まで、18:30の回のみですが、下高井戸シネマで上映があるようです。


それから、映画批評家の大寺眞輔氏とともに、映画の研究会Lehrstuckeを企画・運営しております。
こちら、第一回がジェームズ・マンゴールド監督『3時10分、決断のとき』第二回がイエジー・スコリモフスキ監督の『アンナと過ごした四日間』第三回がクエンティン・タランティーノ監督『イングロリアス・バスターズ』をそれぞれ取りあげて、アクチュアルな議論を展開してきています。
次回は2010年1月17日(日)、スティーヴン・ソダーバーグ監督の『インフォーマント!』およびタル・ベーラ監督の『倫敦から来た男』についての発表と討議をメインに、開催します。
『インフォーマント!』も『倫敦〜』も、私の評価や周囲の評判を考慮するに、白熱した議論を呼び起こすに十分な問題を孕んでいるように思います。
ご興味ある方はLehrstuckeホームページの連絡フォームをご利用くださいませ。


では、あと20時間弱で2009年も終わりますが、来年以降も途切れることなく(もう十分途切れているじゃないかという向きもありましょうが、これは途切れに見せかけた準備期間だと思っていただきたい・笑)更新したり告知したり、記事を書いたりしていきますので、引き続きご愛顧のほどよろしくお願いいたします。


工藤鑑

連絡先アドレス変更

これまでTYPISTの連絡先として用いていたヤフーのアドレスから、新たにGmailのアドレスへと移行しましたので、以後、ご意見やご感想等お送りくださる方は、以下のアドレス宛にお願いいたします。

akrkudo*gmail.com
(「*」を「@」に変えてお送りください)

お手数おかけしますが、よろしくお願いいたします。

映画祭りで見た作品についての文章も、もうじきアップロード予定です。


工藤鑑

「空き家」の住人たち

『ベンジャミン・バトン』『レボリューショナリー・ロード』『夏時間の庭』『へばの』『チェンジリング』について。


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実を言えば、われわれの魂の深層の諸状態、数々の自由な行為によって翻訳される諸状態は、われわれの過去の経歴の総体を表現し、要約している。――アンリ・ベルクソン*1

<いかなる犠牲を払っても、このような方法で統治されないための技術>
――ミシェル・フーコー*2


継承の拒絶


第一次世界大戦が終わり、人々が通りのあちこちで酒を飲んだり花火を打ち上げたりして祝っている。ベンジャミン・バトンはその最中に、母親の命を引き換えにして生まれ、その容姿の醜さに衝撃を受けたらしい父親によって即座に、路地の奥の家の階段下に置き去られる。
『ベンジャミン・バトン』(デヴィッド・フィンチャー監督)で、ブラッド・ピットが(上映時間にすれば大部分を)演じるベンジャミン・バトンはそうして、通常の赤ん坊が辿るのとはいささか異なった道筋を経由して、家を与えられる。
したがって、母親代わりとなる女性が彼の顔を見つめつつ、ほとんど直観的とも言えるやり方で「ベンジャミン」と名前――first name――を最初に与えただけで、最初彼には普通生まれた時点で赤ん坊に付随するものである名字――family name――が付いていない。
久しく酒飲み仲間だった知り合いの男性が彼の父親であり、また「バトン」'Button’という名字であると判明してから、晴れて彼は「ベンジャミン・バトン」と名乗りうるようになるが、結局のところその名字'family name’に含まれる'family'の文字は、実の父親の名字を受け継いだ血縁的なつながりとしての'family'がついに回復されたというよりむしろ、捨てられていた彼を拾い育てた夫婦との関係が、時間を経てベンジャミン・バトンにとって'family'同然になったということを、他ならぬベンジャミン・バトンに意識させる役割を果たすだろう。
ところで、生まれたときに彼の顔が醜かったというのは、普通の人とは逆の時間を生きることを強いるような身体を持って生まれたからだ。つまり、彼は年老いて生れ、時間が経つにつれて若くなり、若くして死ぬ。そうして彼が生きる肉体的年齢は、普通の人の肉体的年齢とは徹底的にすれ違い続ける。したがって彼が将来結ばれることになる女性(ケイト・ブランシェット)と出会った時、彼は「まだ」老人であり、同じように彼女も「まだ」少女である。
この映画は、老いて死を迎えつつあるらしい彼女が娘に、ベンジャミン・バトンが書いた日記を声に出して読ませる現在時制が、過去時制の映像を喚起するという構成を持っている。彼の日記は一度彼女に、彼がそうであるように、普通の人とは別の時間を生きさせようと試み、失敗する。それは、彼女が交通事故に遭うシーンの前に、彼がその事故に関わった何人かの人々が、少しずつ違う行動をしていて(靴紐がほどけていなかったらとか、カフェに寄っていなかったらとか)、その事故が起こるタイミングが訪れなかったとしたら、ということを仮想する箇所である。もちろんその仮想は叶えられることなく、彼女は「現実通り」事故に遭ってバレエダンサーの夢を断つことになる。そこではその事故に関与することになる何人かの人々が、巻き戻しの映像により、通常とは逆の時間を仮に生きる。彼女も。しかし、現実には、彼女は事故に遭ってしまう。
ここで確かめたいのは、当然、ベンジャミン・バトンもまた、彼女と同じ時間を生きているということだ。年を取るごとに若返っていくという設定は、別に彼の周りにだけ別の時間が流れているといったSF的な事態ではなく、単に彼の身体的な条件によって、彼は他の人と異なる生活=時間(この文章中で使う時間という語は、むしろ生活の意味に近いように思う)を送らざるを得ない、というだけの話だ。したがって、前述の仮想は、普通、人がそうする場合と同じように――「あのとき、ああしていれば……」「別の時間を生きていれば」――、仮想のままに留まる。
また、ベンジャミン・バトンは、彼の父親の経営していた大きなボタン工場の相続――血縁に基づく継承を拒否する。ここで工場を相続することが、ベンジャミン・バトンが通常の生活の(仮に名付けるならば)「一直線的な時間」、言い換えるならば「自動的な継承」に加担すること、今日の後に明日が続くことが半ば保証されている状態を受け入れることだとするならば、それを拒否することは、この後、彼がいくつかの直線的な時間を横断し、つぎはぎの時間――まるで日記のように、一つ一つはバラバラであっても、全体を通せばある全体像が浮かび上がる――をつないでいくことを意味するだろう。同じように彼は、育てられた家を「歴史付き」で売り渡すことも、彼女と、彼女との間にできた子供を残して家を出ることも、躊躇しない。つまり彼は、過去に続いてきて、将来も続いていくであろう事がことによれば容易に保障されるような直線的な時間に加担しない。それに彼は、老人ホームで育ったのだ。そこが老人たちの一時の通過場所――誰かが死んでは、また新たな老人が迎えられる――に過ぎない、本質的には誰も住んでいないと言えるような、すなわち空き家と変わらないような場所だったとすれば、彼は(通常の意味で)一方向的に時間が蓄積されていく経験を経ずに成長し、つぎはぎの時間の中で死んでいったのだと言えるだろう。
つぎはぎと言えば――彼も彼女も目にしうるはずのない「雷に撃たれた男」の古びたフィルムのような映像や、ご丁寧にも荒いフィルムのような質感で映し出される、旅先のブラッド・ピットの映像に至るまでの、日記の過剰な視覚化は、さらに病床に伏す彼女による補足まで含みつつ、つぎはぎを追体験しようとする。つぎはぎされた時間は、互いに本質的な連関を持たない断片から構成されているがゆえに、主観的な全体像で捉えられなければ成立しない。彼の一生は、彼女の死の間際に淀みなく(しかしページの欠落などを含みつつ)語り切られてしまったが、それは不思議なことではない。なぜなら彼は、他の人から見ればいかにもつぎはぎに満ちているような時間を自ら選び、しかも彼本人はそれを(一人の人間の人生として語りうるような)直線的な時間として生きていたのだから。
ここで考えたいのは、つぎはぎされた時間、すなわち継承=連続を拒絶した先に生じる時間についてだ。ある意味では彼と同様に、彼女も、あるいは誰しも、つぎはぎされた時間を生きている(/いた)のではないか。ところが私たちは、つぎはぎをいつの間にか直線に転化している――「いろいろあったけど、今、生きている」というものの言い方など、その一例ではないか。しかし、単なる健忘症や怠惰の端くれに過ぎぬそうした物言いと異なって、ベンジャミン・バトンの「数奇な人生」が、直線的な時間として語られつつもなお、明らかにつぎはぎされた時間であったとすれば、そのつぎはぎは、彼があらゆる直線的な時間を自らの意志で拒絶してきたことから生じるのではないか?


ある夫婦の敗北


『レボリューショナリー・ロード』(サム・メンデス監督)でも家は売りに出される。サラリーマンと主婦・二人の子持ち、普通の生活を送る夫婦が、その生活に嫌気がさしてうまくいかなくなりかけ、夫が本当にやりたいことを探すために家族全員でフランスに行こうとするが、夫の心変わりで断念する。妻の提案を夢物語であるとし、現状で何とかやっていこうとする夫と、その現状を善しとせず、悩みを募らせていく妻。夫婦を演じるディカプリオとケイト・ウィンスレットが、まったくもって陰惨な顔をさらしつつ、鬱陶しいほど激しい詰りあいを繰り返す。罵り合いの合間の小休止に、二人はつぶやくように口にする――「『時間』と『自由』があれば……」。
しかし夫婦はそのどちらをも手にすることができずに最後には悲惨な破綻を迎える。夫婦が引き払った後の家は直ちに売りに出され、代わりに新たな夫婦が入居する。まるで「あの夫婦」が入居してきたときのように、しかし同時に「何事もなかったかのように」、近所のお節介夫婦が新たに入居してきた夫婦と語らう。
ここでも時間の一直線的な接続は、フランス移住という自らの意志によってではなく、事故という不意の出来事によって否定され、また別の、もう一本の時間がすぐに自動的につぎはぎされる。そうしてつぎはぎされた時間は同時に直線的な時間へと馴致され、忘れ去られる――しかしその告発それ自体には今さら何の感銘も覚えることはないだろう。ではわれわれは、だからといって、直線的にならざるを得ないあらゆる時間に身を任せ、子供とともにとり残されたディカプリオのように、公園のベンチで頭でも抱えているしかないのか?ここでの問題は、異なる側面から捉えるべきだろう。すなわち、時間が「自動的に」接続されることである。つまり、自動的に接続されたものである限り、いくら予想外の、つぎはぎの時間が訪れたとしても、それは直線的な時間であるとして了解されるに留まる。
というのはそもそも、映画を進展させるごく基本的な原理こそが、そのつぎはぎ――事件が起こることであり、またそれを「観客に意識させないような」自然なショットの連鎖で接続していくことであるのだから。とはいえ、ここでは別に、例えばシュールレアリスム的と言えるような、前後との関係が明確でないショットの連結を施すことを称揚したいわけではない。シュールレアリスム的なショットの非=連結は、しかし「シュールレアリスム的」(というのはここでもまた便宜的な呼び名に過ぎないが)な規則に従っているという意味において、結局は直線的な(=シュールレアリスム的に正しい)時間を建設することを目指しているからだ。ここで考えようとしているのは、その映画が自らの則るいかなる規則に意識的であり、その規則に対してどういう態度を取ろうとしているのか(いかなる意志をもっているのか)ということだ。つぎはぎの時間は、その態度の下で初めて成立するだろう。*3
その意味で、この夫婦の間に新たに生まれるかもしれなかった子供は、不幸なことに、あまりにも自動的な事故だった。これまで続いてきて夫婦を抑圧している「時間」を継承させようとするものであり、そこに夫婦の意志が働く余地がなかったという点で「自由」ではなかった。


時間はつぎはぎされる


『へばの』(木村文洋監督)では、家が建て替えられる。
女と、その恋人である男、そして女の父親が一緒に住んでいる。父親と男は、それぞれ六ヶ所村の核燃料再処理工場で働いており、あるいは関わっていた。そのために父親は妻と長男にかつて逃げられ、男は工場の事故で被曝し、失踪する。父親はここで家を建て替え、妻と長男を連れ戻し、女に孫を産ませようとする。しかし父は死に、女は失踪していた間に他の女と家庭を設けていたその男とセックスをし、子供をつくる。
建て替えられた家を、二人の男――父と、男――が順番に通過し、去ってゆく。後に残されたのは、女と、女が男との間に設けた(と思われる)赤ん坊である。
「家族を回復する」「孫を産む」という継承=連続性=直線の保持のためではなく、その建て替えられた家に、接点=つぎはぎを増やすために、あの男との子供を彼女は自ら望み続けた。直接流れを引き継いでいるわけではなく、かといってまた完全に断絶されているのでもなく、別の方向からリレーされる。そうして、間接的な接点が集まって――つぎはぎされて――、彼女の家は作られるだろう。彼女が、妊娠してつわりに苦しんでいる状態で、風の吹きこむ海沿いのボロ小屋で揺り椅子に身を横たえているショットは、彼女がもはやあの建て替えられた大きな家に住んでいたとしても、あの建て替えられた家の住人というだけではない、このボロ小屋とあの建て替えられた家という二つの空き家の住人であることを示しているように思う。
ここで重要なことは、女が、つぎはぎの時間と直線の時間とを、意識的に/意志をもって混同してみせることだ。彼女があのがらんとした大きな家に子供とともに残るという意志は、父親の望み通りの結果であるにもかかわらず、男が他の女との間に家庭をもっているのを知りながらその男との子供を作ったということから、その望みに従った結果ではないと言える。ここに、自動的ではない継承が行なわれる。見かけ上は継承=直線的な時間への加担でありながら、それを阻害する理由によってその継承がむしろ困難さのもとに選ばれていること。自由への意志は、この困難さのもとで最も発揮される。ここに、つぎはぎの時間が成立する。


忘れよ、しかし思い出せ!


夏時間の庭』(オリヴィエ・アサイヤス監督)では数世代に渡って調度を整えられ、手を加えられてきた家が、老いた女主人の死後、その息子や娘たちによってやがて売り出されることになるのだろうが、その前のほんの少しの期間、新たな住人たちを迎える。それは、これまでとは全く異なったこの家の用途を実践する、少年少女たちである。パソコンをスピーカーにつないで大きな音で音楽を鳴らし、アトリエでバスケットボールをする。池に飛び込み、水辺で戯れる。
映画の最後で、少年少女たちによりパーティー会場という思いも寄らぬ新たな用途を与えられ、ようやくそのさびしげな表情をひと時振り払うことに成功しているように見えるあの家もまた、主人たちに継承を拒絶されたものだ。その代わり、そこで一瞬、かつての主人の孫にあたる少女が、その主人である祖母に聞いたその家にまつわる話を他の参加者の青年にあやふやながら語りかける時、ここでも自動的な継承ではない、間接的かつ自主的なつぎはぎが行われる。
ここで示されていることは、当然のように連続すると思われているものを(関係する当人が)自ら断ち切る自由である。断ち切った後には、いかようにもつぎはぎする自由が現れる。すなわち、あの祝祭的な高揚感に満ちた明るい庭でのパーティーで、あるいは先ほどの少女と青年が二人駆けてゆく庭先を俯瞰するラストショットで、「希望」が見出されつつある。その「希望」はあくまでも意志の問題だ。誤解を避けるために付け加えると、スピリチュアルな問題に留まるものとしての意志のことを指しているわけではない。現実を捉える具体的な態度としての意志である。それはいかなるものなのだろうか。


取り替えられる時間


チェンジリング』(クリント・イーストウッド監督)でもまた、空き家が発生してしまう。母親が仕事に出ている間に家で留守番していた子供が、帰ってみると行方不明になっている。警察は、彼女の子供であるとして一人の子供を彼女のもとに届けるが、彼女はそれが自分の子供ではないと言い張る。それを煙たがる警察によって、彼女は精神病院に入れられる。その間、当然彼女の家には誰もいないことになるだろう。
彼女は、「別の子供」を自分の子供であると認めることに逆らう。いくつかの根拠は、彼女にとって、その子供が明らかに自分の子供ではないことを示すのにもかかわらず、ミスを認めようとしない警察は「時間が解決してくれるだろう」などと言う。彼女が拒んでいるのは、周りが勝手に準備した時間を「責任」という言葉に縛られて生きなければならなくなることである。
この映画では、人々がしきりに「責任」という言葉を口にする。「責任」から逃げた父親、「責任」を放棄する「別の子供」の連れの男、「責任」を捏造する警察……そして、彼女もまた、一途に「責任」を負っている。自分の子供は(「を」)自分で育てる、という「責任」である。
「責任」は、今現在の後にも時間が継続していくということを前提として負われるものである。なぜなら「責任」は、それに伴う結果が出た時点でようやく判別されるものだからだ。「責任」を負う、と言ったとき、人はすでに、この後に続くであろう時間――未来を想定している。それはどこか、「賭け」に似たものでもある。彼女は、1934年のアカデミー賞を予想する賭けで、大方の予想セシル・B・デミル監督の『クレオパトラ』ではなく、フランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』に賭け、見事に当たる。「賭け」もまた、未来の時間を含み持つ性質のものである。賭けが当たったかどうかは、未来が来るまで分からないから、「賭け」が成立するのだ。その後、彼女の子供と同じ事件に巻き込まれた子供の生還を目にした彼女は、ラストシーンで、「希望」という言葉を口にする。このときわれわれはようやく、彼女がなぜ『或る夜の出来事』が当たったことであれほど喜んでいたのか理解することになる。あの「賭け」においては、子供が行方不明になって以来初めて、彼女の信じた通りの未来が訪れたからだ。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンはかつてこう書いた。

 「希望がかくも強い快楽であるのは、未来というものが、それをわれわれが自由に操れる限りでは、いずれも同程度に好ましく、同程度に可能であるような多くの形で同時にわれわれに対して現れるからである。しかし、たとえそれらの形のうちで最も望ましいものが実現したとしても、やはり他のものは犠牲にされざるをえず、結局われわれは多くを失ったことになるだろう。無限の可能性に満ちた未来の観念は、したがって未来そのものよりも豊饒であって、だからこそ、人は所有よりも希望に、現実よりも夢に魅力を見出すのである。」*4

未来は自由だ、あるいは、未来だけが自由だ、未来を信じよ。そのことは、一連の幼児失踪事件に巻き込まれた他の子供が10数年後に発見され、両親と面会するシーンで、それまで画面の中心を占めることなど一度としてなかったその他の子供の父親が涙をこらえる様子を示すバストショットを挿しこむことで、他の登場人物にも可能なものとなる。(ちなみに、ここで他の子供の父親の単独アップが映されることは、『ブロンコ・ビリー』で、馬のリアクションを取る顔までカメラに収めていたことを思い出せばイーストウッドの映画において何ら不思議ではない。)それだけに、未来に対する態度選択の意志こそが常に現在の私たちにとって最も重くのしかかってくる。その意味で、「責任」が未来を担保にして現在に人を縛りつける一方、「希望」は、未確定なものであるがゆえに、それがユートピア的な自由に留まるばかりでなく、「空き家」に留まっている現実の時間を、未確定だが確実な、自らの意志でこの先へと続かせることができるような時間へと変える現実的な自由として機能し始める。「希望」とは、未来の自主的な設定である。もちろん、ラストショットで歩き去る彼女を追おうとするわれわれの目の前に立ちふさがる字幕が、彼女の「希望」の行く末を示していたとしても、それが「絶望」に変わるわけではない。むしろ、彼女がその「希望」を抱き続けたという事実の方に、その「実話」の迫力は発揮されている。
こうして彼女は、「責任」ではない未来の獲得方法を発見する。「責任」の“Changeling(取替え子)”――それは、彼女が久しぶりに見せた笑顔とともに「希望」と名付けられるだろう。


工藤鑑

*1:ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(中山元・訳、ちくま学芸文庫、2008)所収「批判とは何か――批判と啓蒙」p77より引用

*2:アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論――時間と自由』(合田正人&平井靖史・訳、ちくま学芸文庫、2002:原著1888)p205より引用

*3:関連づけて簡単に触れるに留めるが、エリック・ロメール監督の最後の作品になるかもしれないという『アストレとセラドン』は実に快いつぎはぎの時間が流れる映画だ。あの映画に出てくる人物たちは完全に彼らの規則――その規則とは、テクスト内世界と視覚に対する忠実さであるが(そこには、5世紀の物語を17世紀に書いたというオノレ・デュルフェによる原典に基づいて「今(正確には2007年)」映画を撮る製作者や、「今」それを「見ている」観客の参加も組み込まれている)――に則っている。だから、川辺に転がるセラドンは「美の三女神」によって占い通りいともあっけなく発見され、女装したセラドンは女性だと信じられるし、あるいはアストレは眠っている間に口づけをしかけたのはセラドンであると信じる――なぜなら立ち去る寸前の彼の姿は彼女(と観客)だけに見られたからだ。
 あるいはアレクサンドル・ソクーロフ監督の『アレクサンドラ』もまた、登場人物間の規則の交流の過酷さを克明に提示する。それはラスト近くの、市場で出会ったおばさんが電車の進行方向に背を向けて立つショット、すなわち、今まで言葉を交わし、すれ違うたびに人物たちに背中を見せ続けてきたアレクサンドラが逆に背中を見せられるショットに顕著に示される。

*4:アンリ・ベルクソン前掲書、p20-21より引用

ここにいるはずだった子供へ

(※一つ前の記事「幻想としての蓄積」の前に準備していた記事です。時期を逃し、今さらになってしまいましたが、掲載させていただきます。――筆者註)

 冨樫森監督『あの空をおぼえてる』の冒頭、いきなり青空を飛ぶ女児が目に入ってきたときには、いくら『鉄人28号』を撮った監督の仕事とはいえ「女の子が空を飛んでいる!」とうろたえないこともなかったが、ラスト近くでその女児の部屋の壁に青空のペイントを施しながら兄がこの「夢」を父親に語る瞬間にはそのような違和感は無事解消される。
 そのシーンについて考える前に、女児の死をめぐって、残された家族が最も固執した一枚の写真について考えてみたい。それは、しな垂れる竹林のアーチの中を、女児が光に満ちる先(奥)のほうへ走っていってしまい、少しばかりかげった手前に兄が取り残されて、写真を写すカメラの側、撮影者である父親の側、またそれを微笑ましげに眺めている母親の側に不安げに目を遣っているという、誰もが一目で分かるようにまさにその後に起こる悲劇を、事故場面という意味でも、事故後の家族の関係という意味でも、象徴しようとしているかのような写真である。事故後、じきに産まれようとしている子供もいるため女児の死から立ち直ろうとする母親に対し、父親が女の子の死を受け止められずに閉鎖的になるのは、われわれに分かる範囲で理由を求めようとするならば、あの写真の撮影者として、撮るもの/撮られるもの/それを眺めるものといったそれぞれの定位を行なったからではないか。
 父親が残された家族に対し再び語りかけ始めるきっかけは、彼のみならず母親もまた駆け出してゆく女児と兄を眺めているだけだったことで、同じように息子も自分があの写真にあのように撮られる位置を占めていたことで、それぞれが女児の死の原因を自らに帰していたと父親自身が知ったことだったのを思い出していただきたい。つまりあの写真があのように撮られたこと、その事実が残ってしまった以上はあの写真を撮り直さなくてはならないと考えるのも当然だろう。正確に言えば、家族の誰かが撮った映像、家族の誰かが撮られた映像、家族の誰かが眺める映像のいずれでもない、家族全員が撮られる映像として、撮られ直さなくてはならないのだ。
 家族は事故からの回復の過程で、女児の死後産まれた赤ん坊と共に再びその竹林を訪れる。今度は父親も写真を撮らず、家族全員がまとまって竹林のアーチを抜ける。その四人の姿は、当然ながらこの映画を撮影するカメラによって撮られている。このとき、この家族は新たに撮られ直される。すなわち、家族全員がフレームに入ることができる位置にカメラを構えた家族の誰かではない撮影者/視点に撮られ直す。
それを踏まえれば冒頭の少女飛行シーンが部屋の壁を塗り重ねている時に何故思い出され、両親に語られなければならなかったのかということも明らかである。むろん、誰かの主観ではなく、残された家族全員に共有される、あるいは残された家族全員の誰にとっても等しく所有され得ない映像として、撮られ直さなければならなかったからだ。それを証明するかのように、青空を模した壁のペイントに女の子の飛ぶ姿は描き込まれないし、一方では草原で風船を眺める家族の周りを、彼らには見えないらしい女児が笑いながら走り回る。家族が女の子の幻影を見ようとするのではなく、家族が女の子の幻影と共に見られるとき、この家族の回復の過程はひとまず完遂する。


――さて、残念なことに、橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』においても、子供は死ぬ。
冒頭、二人で交わされる会話――セックスについて――で、しっかり決めてその通りにやれば上手くいくと考える妻と、そのような厳密さが柔軟さを奪うと考える夫との差が明らかにされる。その差はほとんどそのまま、二人の現実に対する距離の取り方の差でもある。現実を動かしようのないものとして捉えようとする妻と、現実に対してもある程度の柔軟さを持って受け止めようとする夫。したがって、生後間もない子供を失った母親は精神のバランスを失い、夫はなるべくショックを表面に出さないように気を遣うものの妻を回復させようと働きかけることはできないまま、法廷画家としての仕事を続ける。
ところで法廷画はその性質上、仕上げのスピードと法廷や被告人の様子を現実に即して再現することが重視される。一方で妻が手がけることになる寺院の天井画は――描き始める前に画集をめくっていた若冲の絵のように――必ずしも対象となる数々の植物を現実そのままに再現しようというものではなかった。つまり、それぞれが描くことになる絵は、前述の二人の現実認識と照らし合わせてみたとき、実はそれぞれのタイプに対応していない。むしろ逆である。現実と厳密に関わるのはどちらかというと法廷画の方で、天井画はむしろ現実に対して柔軟であると言えるからだ。
つまり、二人はそれぞれにとっての現実認識のタイプと異なる(正対する、とは言えない)種類の絵を描くことで、法廷画と天井画という二種類の現実に似たもの――リアリティの次元から、現実に対する二人の認識のすり合わせを行ったのではないだろうか。夫は自分の、なるようになる、という認識を現実の訳が分からないいくつもの事件にぶつける。 また妻は、しっかりしていれば上手くいくという認識を、描く対象としての植物の柔軟さに控えめながらぶつける。それによって向き合うことになるのはもちろん最も身近な他者としての妻/夫なのだが、そこから出発してさらに、あらゆる意味での他者の総体であるような現実――「ひと、ひと、ひと」――についてのビジョンを、二人の間にできる限り共有できるような形で築こうとする。 
あの空をおぼえてる』で視点を外部に託すことで始めて、死んだ女の子の姿が家族とともに実在したのと似て、『ぐるりのこと。』においても、二人がそれをめぐって右往左往する当のもの――現実は、人がいるだけですでに実在しているはずなのに、彼らにとってその姿は互いが描き合う絵という一種の媒介に託さなければ浮かび上がってこない。
しかし、それは決して主体的な関係性の欠如といった事態を示すものではない。(そもそも、主観に従って規定された現実が言葉の真の意味での現実ではないのと同様に、われわれが頭の中で想定するような他者も真の他者とはかけ離れている。)この二本の優れた映画がなしたのは、自分もそこに含まれるものとしての現実を、(自分もその中に含まれるものとしての)他者を媒介にして捉え直す、という提案である。


工藤あきら