ex-TYPIST

元TYPIST,現Therapist(予定)

「コ」の痕跡/『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』

(※2019年11月の記録)

 

私たちは資本主義の世界を生きているらしく、その世界に出回っているキャラクターはすべて商業的な目的を持っている。そのため、素直になりきれない大人たちが、キャラクター商品などを見てこんなことを言ったりするのをときどき聞く。

「子供をダシにした商売!」(こんな口汚くないでしょうけど。)

だがその時、思い出してみて欲しいといつも思うのだが、キャラクターは子供にとって「商品」ではない。私たちや、もっと上の世代の人たちがウルトラマン仮面ライダーセーラームーンプリキュアやその他いろいろな子供向けキャラクター番組を見ていたとき、そのキャラクターたちは資本主義の論理とは無関係に、良いことと悪いこと、美しいことと愚かなこと、友愛と暴力に触れる機会を私たちに与えてくれていた。子供たちは、あるいはかつて子供だった私たちは、キャラクターたちに触れているとき、彼/彼女たちと同じ世界を生きている。

「すみっコぐらし」はそんなキャラクター「商品」の一つで、「リラックマ」などと同じサンエックスが展開している。「とんかつの脂身」や「ストローで吸いきれなかったタピオカ」といった、表舞台よりは部屋の隅っこでひっそりとしていた方が落ち着くような、一般的には「ネガティブ」と見られるような要素を抱えて健気に生きるキャラクターたちが揃っている。

さて、一つクリアにしておかなければいけない。「すみっコぐらし」の「コ」だけがカタカナで表記される点だ。ここには(「すみっコ」らしからぬ)大いなる謎があると考えるべきだと思う。しかし、ここでは単純に「コ」の字の形=部屋の角(かど)と理解してみようと思っている。つまり「コ」一字で「すみっコ」のエッセンスを付加しているのだ。

本作のタイトルが『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』である理由もそこにある。「ひみつのこ」ではなく「ひみつのコ」でなければならない。なぜなら「コ」は「すみっコぐらし」の象徴であり、「コ」それ自体が「すみっコぐらし」の仲間であることを含意するからだ。

物語は、「すみっコぐらし」たちが喫茶店の倉庫で見つけた昔話の絵本の中に入り込み、そこで出会った迷子のキャラクター「ひよこ?」(ひよこに似ているが羽毛が灰色のため、「?」まで含めた名称)の帰るべき場所を、いくつかの昔話の舞台を行ったり来たりしながら一緒に探してやる、というものだ。「すみっコぐらし」に声は与えられず、物語はナレーターと、補足的に現れる文字で進んでいく。まずはこの決断が素晴らしい。「すみっコ」たちは自己主張もそれほどしないので、声がない方がむしろ自然に思えるし、ナレーターの声が完全に親が子に読み聞かせる調子を再現しているため、絵本というテーマとも合っている上に、あたたかい布団の中で面白い話を聞いているような心地よさが溢れる。

最終的に「ひよこ?」が帰る場所は見るものの予想を上回る、とてもあたたかい場所だ。エンドロールで原田知世の歌声に乗せて、「曇った窓ガラス 指で落書きした」という言葉が耳に流れ込んでくる。例えば、その指が覚えている場所。例えば、親が布団の中で聞かせてくれた、今はもう覚えていない物語。「ひよこ?」が帰ったのは、そんな場所だったと思う。窓の落書きは水滴が流れてすぐに見えなくなってしまうかもしれないけれど、それを書いたとき、そこには確かに一つの世界が立ち上がっていたということを、私たちの指は覚えている。「すみっコぐらし」たちが「すみっコ」らしからぬ大奮闘を通じて私たちに残すのは、そんな、今は消えてしまったかもしれない、またはどこか「すみっコ」で今もそっと息づいているかもしれない、小さな世界の痕跡だった。