ex-TYPIST

元TYPIST,現Therapist(予定)

『ミツバチのささやき』撮影地,オジュエロス村へ(2021年9月)

バス

 マドリッドからまずはセゴビアを目指す。セゴビアまでは電車(Avantなど)も出ているが,バスも便利。地下鉄モンクロア駅の改札を出てバスターミナルに向かい,地下1階(-1階)の8番か9番から出る。けっこう時間ギリギリまで乗車案内がなくて不安になるが,時間になるとジェイソン・ステイサムみたいな運転手がやってきてチケットの確認を始める。チケットはスマホ画面で表示すれば問題ない。

 ちなみに,他の日本語のブログでセゴビアへのバスがプリンシペ・ピオ駅から発着しているという情報があったが,2021年9月現在,運行していないようだった。 バスの車内は日本の高速バスくらいにまあまあ快適で,座席に飛行機のようなテレビもついている。個人的にはAVEより楽に感じた。車内トイレは新型コロナウイルス対策と関係あるのか,使用禁止だった。モンクロアのバスターミナルのトイレは無料だし割ときれいなので先に済ませた方がよい。セゴビアのバスターミナルのトイレは有料。 マドリッドは車に乗るとすぐに郊外に出る都市で,もう少し走ると山々と牧草地が広がりはじめる。その辺に牛,馬。四角く積まれた藁。セゴビアまでは1時間20分。

 

セゴビア

 セゴビアのバスターミナルから街の中心に向かって歩いて,せっかくなので有名な水道橋は見学する。水道橋の上の方と同じ高さにまで階段ですぐに登ることができて,眺めもいい。この水道橋は街の真ん中にあるので,橋をくぐる通り沿いにたくさんのカフェがあり,お茶をしながら橋を眺められる。この水道橋は石を積むだけでできているという。つまり,石と石をくっつけていない。石と石が重さで噛み合う力だけで,古代ローマの時代から崩れずに残っている。登りながら,これが崩れるのはいつ,どんなときだろうか,と考える。

 

オジュエロス

 さて,オジュエロス村だ。セゴビアからオジュエロスまでは車で40分ほど。平日はバスも出ているらしいが,日曜なのでタクシーしかない。タクシーの停車場は水道橋のすぐそばにある。ここまで平然とHoyuelosを「オジュエロス」と書いているが,セゴビアでタクシー運転手に話しかけるまでは「オユエロス」村だと思っていた。しかし,スペイン語でyuの発音は「ジュ」と「リュ」の間にある「ジュ」として発音されているため,タクシー運転手に「オユエロス」と言ったら「オジュエロス」と返ってきた。オジュエロスに行って,降りて散策して,ここまで帰ってきたい。総額いくらでお願いできますか?運転手は何やら計算したのち,96ユーロで請け負ってくれた。今回捕まえたタクシーの運転手はたまたま英語がかなり通じたが,そうでない運転手も多いと思うので,ここの交渉が一番難しそうだ。とはいえ,Google翻訳を使ってクリアできないほどではないと思う。 タクシーは田園の中を走り続ける。正午過ぎだが,9月の日差しは真夏のそれに比べておとなしく,助手席も眩しくない。運転手が,あ,奥さんからだ,と断ってハンズフリーで電話に出る。「オジュエロス村に行くから昼ごはんには戻れないよ,夜はいつも通り,8時か9時に帰る」。ああ,スペインの働き方だ。

 彼は『ミツバチのささやき』は知らないという。でも,「他の運転手から,オジュエロス村に日本人を連れて行ったことがあると聞いたことがある」。日本人のなかにはこの映画がなぜかとても好きな人々がいるのだ,と説明する。彼は不思議そうな顔をする。 村が見えてくると,彼はこんなことを教えてくれた。「オジュエロスというのは,もともと『低い土地』という意味だ。だからオジュエロス村は,ああいうふうに,少し下がったところにある」。あとで調べると,Hoyuelosは英語で言うdimple,つまり「えくぼ」や「ネクタイのくぼみ(ディンプル)」にあたる言葉なので,こういう説明をしてくれたのだと思う。 あの入り口が見える。タクシーを降りる。やはり,映画の冒頭,フィルムを詰んだトラックがやってきたあの入り口だ。

映画を上映した建物。

アナとイサベルの通う学校(改装中)。

 マドリッドでもそうだが,スペインでは真新しい建物が本当に少ない。古い建物を改装してずっと使っていることの方が多いと思う。それがなぜなのか詳しくはわからないが,とにかくそういう風習が,ほぼ50年前の映画の撮影地を今,目の前に見せてくれている。 突然スピリチュアルな話になって大変恐縮だが,俺はこのようなことは個人の運や人間の叡智などを超えた,超越的な力のなせるわざだと強く信じている。自分が今スペインにいて,今日オジュエロスに来て,何回も見直した1973年の映画の撮影場所がそのまま残っていて,9月の穏やかな太陽があたりを包んでいる。アジア人の珍客にも「オラ」と声をかけてくれるオジュエロスの人々。昼飯を食べ損ねて腹を空かせてるのに辛抱強く待ってくれているタクシー運転手。美しく植えられた花。このようなことのすべてが,誰か,何かによって都合よく,うまく説明される日が永遠に来ないことを祈る。セゴビアの水道橋が崩れないことを祈るのと同じ強さで。


Palacio de Hoyuelos

ミツバチのささやき』でアナとイサベル一家が暮らしていた屋敷は,現在はPalacio de HoyuelosというCasa Ruralとして営業している。本当は宿泊してみたかったのだが,すでに予約が埋まっていたため,オーナーにメールで相談したところ,短時間の見学だけ許可してもらえた。Casa Ruralというのは貸切メインのユースホステルとかペンションみたいなものだということは訪問してから知った。ホテルと違って食事は宿泊者が自分で作らなければならないが(オジュエロスだと周囲にレストランもないし),部屋を自由に使える。スペインでは家族ぐるみで付き合いのある友人同士が週末に利用することが多いという。この屋敷は代々,とある一家が所有・管理していて,この映画の公開と同じ年の生まれの現在のオーナーは,祖父母や両親から,この映画の撮影当時のことも何度か聞いたことがあるそうだ。もっとも当時(今も撮影とはそういうものかもしれないが),撮影によって屋敷がしっちゃかめっちゃかになったそうで,たとえばおじいさんはあまり映画のことをよく思っていなかったかもしれない,とのこと。現オーナーはこの屋敷にとても愛着があるのに加え,『ミツバチのささやき』もよく見ていて,場面に則して屋敷のあちこちをとても丁寧に案内してくれた。

正面。

玄関から続く階段。

焚き火をした庭

いなくなったアナを母が呼ぶベランダ。

アナが外に向かって呼びかける窓(があったのと同じ場所にある窓)。

 ここでもオーナーから,「2年にひとりくらいのペースで,この映画がきっかけで知ったという日本人が訪れてくる。映画がきっかけで,というのは日本人だけ」,と聞く。自分もそのひとりだが,日本人シネフィルがスペインの片隅で民間伝承みたいに扱われているので笑ってしまう。 オーナーにお礼を伝え,タクシーでセゴビアに戻る。運転手は待っている間に村の人たちとおしゃべりをして,日本人がわざわざ現地を訪ねるほどの謎の映画について情報収集をしていたらしい。おしゃべりしていた村の人のうちひとりの奥さんが,『ミツバチのささやき』に出たそうだよ,と教えてくれた。当時子どもだったその人は,今60歳近いはずだ。運転手いわく,「さっきしゃべっていた村の人も以前その映画を見てみたが,とても『ストレンジ』な映画だと思ったそうだ」。『ミツバチのささやき』が「ストレンジ」という語彙と結び付かなくてつい笑ってしまったが,それももっともだと思い直す。他のどの映画とも似ていないからね,と返事をした。